3.雪と砂塵の思い出 アレ以来、ロイは夢をみる。 それは夢というにはあまりにリアルで、夢だと自分を納得させるのには、ひどく骨が折れる。 『申し訳ありません、閣下。もう、お助けできません・・・』 群青色のシーツに、妻の純白の長い髪がちっている。あの最悪の戦場から帰ったときには、暖かな土色はすっかりなくなってしまっていた。戦場を駆けつづけた妻の肌は褐色で、瞳はロイと同じ夜の闇だった。水気を操る〈純雪の錬金術師〉、サラエ・マスタング。 夫とともに〈アメストリスの双樹〉と呼ばれた、最強の錬金術師。 ようやく世界が僅かばかりの安寧を得ようというときに、彼女は永遠の眠りにつこうとしていた。 まるで、戦うために生まれてきたというようで。戦いが終わったら、生きていることすら許されないとでもいうようで。 最後まで閣下としか呼ぼうとしない妻の手を、ロイはにぎりしめた。果てしない焦土の中、ようやくつかんだ、平安への道すじ。そばで力を尽くしてきたのに、そのために、妻になったというのに。 『逝くな!サラエ。なぜお前が今、逝ってしまうんだ!』 力をふりしぼって、サラエはうすく微笑んだ。 『泣かないでください、閣下。ここまで力を尽くしてきて、わたしは、わたしなりに、満足です。あなたが残るのなら、きっとこれ以上の悲劇を避けることができる。そうでしょう?』 『それをつくったのは、お前もだろうサラエ。身を粉にして、こんな風にいなくなるなど許さん!逝かないでくれ。俺は、耐えられない・・・』 多くの部下を、多くの民を失った。それに、 『エドワードも、いなのに』 今生で、金の賢者と会うことは、一度もなかったのだ。 なにをしても満たされないでいたロイを見かねて、彼と金の賢者との長い縁を語ってくれたのは、彼女だった。とうに一族は散ってしまったとはいえ、わずかに残る魔女の口伝を洩らすのは、躊躇われたことだろうに。 嘘くさい話なのに、すとんと胸に落ちた。まるで、ずっと以前から、知っていることのように。物心ついたときには胸に下げていた、不思議な赤い石。戦場で感じていた、奇跡のような守り。 ずっと、ずっと待っているのに。 金色の影を、何度夢にみただろう。 サラエは震える手をのばして、ロイの頬に触れる。なぐさめるように。涙をぬぐってやる。 『やれるだけはやりました。でもひとつだけ、後悔しているんです。わたしがあなたの妻としていたことで、あなたの大切な人が、会いにこなかったんじゃないかって。御守りしたくて、御そばにいさせていただいたけれど・・・』 苦しげに咳きこむ。その顔は、疲労の色が濃い。疲れきっているのだ。もうずっと、長い間。 『大総統の制度が崩壊したせいで、あの御方とのつながりは途絶えてしまっていた。あの御方を、人間の世界に繋ぎとめるはっきりした契約は、もうなくなってしまっていた。それでも、あなたにだけは、あなただけには会いに来るのだと・・・わたしは魔女の血を少しひいていたので、「世界」のことも知っています。わたしは、「世界」が恐ろしい・・・そして、憎くてならないのです。こうやって、あなた方の運命を、弄んでいることも。わたしたち人間を、ずっと、ずっと』 また、苦しげに咳きこむ。 いのちが、急速に薄れていくのがわかる。目の前で、ずっと自分を助けてくれた、頼りになる部下、大切な友が死んでいこうとしているのだ。 『申し訳ありません。お助けしたくて、ずっと、あなたが平和をつくる、のだと。守らなければ、と、わたしは・・・閣下・・・』 死なないでくれ。急速に温度を失っていく手をさすり、その体をゆさぶり、大声で名を呼ぶ。 『サラエ!』 後ろに控えていた副官が、嗚咽を押し殺しているのがわかった。ホークアイ大佐もまた、サラエの親しい友だったのだ。まだ妻をゆさぶろうとするロイを、リザがかすんだ声で止めた。 『もう、ゆっくり、眠らせてあげてください。ようやく、休めるんですから・・・』 リザは両手で、顔をおおう。 『どうして、こんなに早く・・・!』 絞りだすような、リザの声。 どうして!後悔しながら、死んでいくなんて。この、雄々しかった女が。一度も立ち止まることなく、走りつづけた戦士が。 エドワードはなぜこない!、なぜ、一度たりとも会いにこなかった! どうでもいいのなら、完全に放っておけばいいものを、遠くから守り、なぜ、どこにもいない。 『エドワード!なぜなんだ!』 怒りにみちた、獣のような叫び声。 ロイは思い出す。あの戦場で、サラエは求婚してきた。土にまみれて、思いつめた目で、まるで脅すような口調で。 『結婚してください、マスタング将軍。あなたが死んでは、われわれに未来はない。どこでも、必ず、御守りしますから』 妻であるのに恋人もならず、最後まで忠実すぎるくらい忠実な、護衛であり部下であり、友だった女。 『サラエ・・・!』 今このときだけ、思うさま泣こう。 我々の道は、ずっと続いていて、ずっと、険しいままなのだから。 「大佐、どうしたんすかその目」 真っ赤な目をして出勤してきたロイに、ハボックが声をかかる。 「そんなに赤いか?」 「もう真っ赤です。泣きはらしたみたいに」 ロイはばつが悪そうに目をそらす。もしかして、図星なのだろうか? 「ちょっと夢見が悪くてな。これから外回りなのに、情けないな」 こまった様子で鏡をみるロイに、女性士官があたためたタオルをわたした。 「マスタング大佐、これを目にあてるといいですよ。ちょっとはマシになります」 「ありがとう」 今日も笑顔の安売りをしているロイに、女性士官はうれしそうに笑いかえした。 「無駄遣いですねぇ、大佐」 「なにがだ、ハボック」 温タオルをあてたロイは、気持ちよさそうに深いため息をついた。 「笑顔ですよ笑顔。だって大将あんた、特定の恋人全然つくんないじゃないですか」 「そんなことはない」 「そんなことはありますよ。シルヴェスタ軍曹だって、そう言ってましたから」 「・・・あいつが?余計なことを」 銀髪の美女、シルバ・シルヴェスタは、ロイの恋人ではないかとも噂されているのだが、そのことは黙っておこう。これ以上不機嫌になると困る。ホークアイ准将が得体の知れない美女の軍入りを承諾したのは、ロイを軍につなぎとめるためだった。シルヴェスタ軍曹は怪力無双、機敏で賢く体力もある。しかし、人の心の機微にうとすぎて、くだらない騒動を何度もおこしていた。だからずっと、出世しない。 ロイが入隊して、もう5年がたっていた。必要最小限しか錬金術を使わず、現場の指揮に目をみはるほどの能力をみせたロイは、今ではここに欠かせない人物になっていた。実力で、まわりを黙らせてしまったのだ。 「〈北の森〉からシルヴェスタ軍曹の身元保証にきてくれたあの人、いたじゃないですか。赤毛のかわいこちゃん」 「ヘザー・ホーンのことか。ハボックお前、あいつを捕まえて「かわいこちゃん」なんて、命知らずな。あいつは〈雷獄の錬金術師〉だぞ。それにな、あいつはシルバのためにじゃなく、俺に結婚祝いをせびりに来たんだよ。あんなこと言ってたくせに、結婚して森を出るなんて」 もちろん、祝福している。でも意外すぎて、あのヘザーと恋愛と結婚とが、ロイの中でうまく結びつかないのだ。相手は、好奇心で森に忍びこんだ医者。その無鉄砲さは、たしかにお似合いかもしれない。 「そうそう。あの人結婚してるんですよね。大佐が個人的に親しい女性なんて、ホーン女史とシルヴェスタ軍曹だけですよねぇ」 「どうだかな」 目の赤みは、大分ひいてくれた。 「これでよし。行くぞハボック」 東部の軍が変わっているところは、どれだけ出世しようと、パトロールがまわってくる所だ。もちろん頻繁ではなくなるが、将軍になってもなくなりはしない。 街は平穏で、なんの事件もなかった。主婦の女性たちが買い物に歩き、学校帰りの子供たちが、声をあげて駆けまわっている。 古書店の前を通りかかったロイは、ちらりと中をのぞきこむ。 白髪と土色のまじった髪を結い上げた店主が、カウンターに座り、本のページをめくっている。 うつむき加減の面には、おだやかな静けさがあって、店の空気といっしょに、ゆっくり、ゆっくりと、時が流れているのがわかる。 ふと顔を上げた店主は、その黒い瞳にロイたちを写すとにっこり笑い、手をふってあいさつをした。目もとの笑い皺が、彼女の人生の幸いを物語ってくれる。 ロイも手をふり返す。あいかわらず、明晰な瞳をしている。そんなことを考えながら。 「ちゃんといるだろう?」 「は?なんのことです」 「個人的な、女性の知人だよ」 そういう意味じゃないんですが・・・店主のサラエはハボックも見知っており、魅力的なご夫人だとわかっている。でも大佐、俺が言っているのは、若い恋人候補の女性なんですが。 たしかに、ロイがサラエにかえす笑顔は、若い女性士官や街の女の子にむけるものより、よほど深く、真実あたたかい。 「マスタング大佐―!」 澄んだ鈴のような声音が、道のむこうから聞こえてきた。 「シルヴェスタ軍曹。なぜここに?」 まだ、勤務時間内なのだが。シルバは全力で走りよってくると、ロイの目の前でぴったり止まる。 「手がかり、見つけたわよ。大佐」 ロイの、顔色が変わる。目の色が、真剣すぎて恐ろしいくらいに。 「本当か!どこだ」 「場所はまだはっきりとは。でも、たぶんこれからたどれると思うわ。あの子のところまで」 それが、「金の賢者」への一歩を、長い離別の終わりをつげる、開幕の鐘の音だった。 4.手繰り歌 英雄がいるのは、いつも戦場だ。彼らは、伝説の霧にまぎれ、永遠に人々の記憶に残っている。 〈アメストリスの双璧〉とたたえられた国家錬金術師、〈焔〉の大佐イアン・フィアボルト(のち大総統)と〈金の賢者〉エドワード・エルリック。 内乱時に〈戦う華〉と讃えられた、勇ましき聖女リリアナ・フォリア。 東部異民族イシュヴァールとアメストリス人の和解に生涯をささげた戦地の医者、〈無銘の賢人〉ヒース・ガードナーと妻エヴァー。 〈アメストリスの双樹〉とよばれ、戦乱をおわりに導いた錬金術師夫婦、〈烈火〉の将軍アーサー・ジークフロードと〈純雪〉の大佐ラリサ・ジークフロード。 そうあれと希望をこめて、〈最後の交渉人〉と称されたクロード・スプリンガー(のちセントラル同盟盟主)。 今ようやく平穏が訪れ、英雄は、過去の物語となっていった。 しかし、こんな穏やかな日々にさえ、人々の記憶にのこる物語があるのだった。 紅蓮の錬金術師、ロイ・マスタング。 東部で人々の尊敬をあつめる彼は、ふつうというには器が大きく、英雄というには日々は平凡だった。 彼もまた、伝説にその名を刻まれることになるのだが、それはまだ先のお話。 まだ誰も、そんなこととは知らない。 急ぎ軍舎に戻ったロイが見せられたのは、練成陣の写真だった。 「開発で掘った土の中から出てきたそうなの。もちろん工事は中止。危険ですからね」 金色の繊細きわまりない線で描かれたそれは、球形をしている。 「三次練成陣だと?こんな複雑な陣が可能なのか?」 シルバは錬金術師ではないはずだが、彼女が応じる。 「これを発明した錬金術師、公的に名前は残っていないんだけどエヴァー・ガードナーね。彼女が言うには『これは人間には少々もてあます代物だが、寿命が5倍もあれば、使いこなせなくもないだろう』ってことらしいのよ。意味わかる?つまり、」 「不老不死のエドワードなら、使いこなすことも可能だ。というかエドワード以外考えられない。そういうことだな?」 「ええ。それで、この練成陣なんだけど」 ロイは、写真を見ながら深く考えこむ。 「これひとつで意味があるというものではないな。他の場所にも、同じものが埋め込まれているはずだ。全部を連動させて・・・どうするのかは、まだよくわからんが。目的は通信か?だが、あいつには必要ないんじゃないか」 「ヘザーに訊いたらどうかしら?彼女の得意分野でしょう」 ロイはそばにひかえていたハボックの両肩に手を置くと、真顔で頼みこむ。真剣すぎて、逆に冗談のようだ。 「ハボック、頼む。ヘザー・ホーンを捜して、これの発見現場に来るように頼んでくれ。これが彼女から連絡のあった、最後の宿の番号だ」 さらさらと書きつけると、ハボックに押しつける。 「頼んだぞ。わたしたちは現場に行ってこれの調査を開始する」 おいおい。そう思いながらもなんだかワクワクしてしまうハボックだった。金の賢者が、ほんとうにいるのだろうか? 「ホークアイ将軍に許可は取りましたか?」 「とったわよ。わたしたちはこのままあっちに向かうわ」 シルバの言葉に、ハボックは肩をすくめる。 「手際のいいことで。いつもの無能っぷりは、わざとなんですか?シルヴェスタ軍曹」 「わざとじゃないわよ。失礼ね」 つまり、素で無能なんですね。 無理して女言葉を使わなくてもいいのに・・・ハボックは喉まででかかった言葉を呑みこみ、ロイに敬礼した。 ハボックは自分の感覚に自信を持っている。その感覚が、シルヴェスタ軍曹に関わるなと告げてくるのだ。それは猛獣と対峙したかのような、水しぶきをあげる瀑布を前にしたような、とんでもなく奇妙な感覚だ。ふつうに話しているほかの連中が、とてもじゃないが信じられない。 これはとんでもない女だ。いや、そもそも女なのか、人間なのか疑わしい。 とにかく、連絡だ連絡。ハボックはもうひとりのすごい女をつかまえるため、情報部へむかった。 二日後には、ヘザーも現場についていた。まばゆい赤毛が逆立って見えるような、不機嫌オーラ。周りの人間が波のようにひいていく。明るい緑の瞳が、燃えあがっている。 もちろん、不機嫌だからといって錬金術をむやみに使ったりはしないが、皆彼女の力が恐ろしいのだった。ロイが笑顔を張りつけてあいさつする。 「やあ、ありがとうヘザー」 「やあ、ですって。そんなさわやかにあいさつしたって、騙されませんからね!どういうつもりなの、ロイ。返答次第によっちゃタダじゃすまないんだから!」 怒りくるっている。当然だ。新婚の夫は医者。患者を一番愛する夫は仕事に戻っていしまい、ロイのせいではなればなれなのだ。 「手がかりを見つけたんだ」 「やっと?」 こくりとうなずくロイに、ヘザーはようやく怒りを静める。 「見せて」 地中に半分埋まった練成陣を、ヘザーにさし示す。 「これは・・・三次練成陣。すごい・・・なにこれ。ちょっと土落とすわよ」 丁寧に土を落とす。ヘザーはそのまま座り込んで、動かなくなってしまった。唇がかすかに動いている。どうやら、高速で計算をしているらしい。紙の束を手渡すと、ものすごい勢いで数式が書き出されていく。 ロイは傍らで日傘をさしてやる。ロイとシルバでそれなりの結論を出してはいたが、専門外なだけに、本体の正確な位置がわからないのだ。三次練成陣の研究をしていたのは、北の森でも雷獄の錬金術師だけだった。ロイは、自分の幸運に感謝する。 陽がおち、ロイはヘザーの肩にショールを掛け、ランプをともす。そばでシルバが退屈して眠りこんでいた。 「で、」 半日ぶりにヘザーが声を出した。体中がこわばっているらしく、痛みをこらえながらぎくしゃくと体を伸ばす。 「知りたいことは?」 「本体の位置。たぶん、そこにいるはずだ」 「くわしい構造とか理論とか、そういうのはいいの?」 「とりあえず今はいい。どうせあんたが論文まとめるだろう?あとで見せてくれ。おもしろそうだからな」 ヘザーはあきれて笑うと、手をあげて伸びをした。 「そこまで計算してたなんて、あいかわらずね。本体の位置は、地図、コンパス、定規。ちゃんと書いてあげるから用意して。あと、シャワーと夕食もね」 「はい。ちょっと意外な場所よ」 髪を拭きながらロイに手渡した地図には、星のマークがひとつ。 「北の森の、東のはずれ・・・?」 後ろからシルバが興味ぶかげに覗きこんでいる。 「そうよ。森と砂漠の境目。確かに、こんな所には誰もこない。ふつうに捜したらまず、見つからないでしょうね」 ヘザーは、急に真顔になった。 「ロイ。彼に会ったら、ちゃんと報告に来なさいよ」 「・・・なるべく、そうする。ありがとうヘザー」 すぐさま出発しようと、ロイとシルバが外に出て行く。 ヘザーは扉から、ふたりを見おくる。ヘザーはいつも、ロイを見送る側だ。 「ヘザー、さよなら!」 ロイの声と同時に、突風が吹く。砂ぼこりに咳きこみ、目を抑える。 次の瞬間にヘザーがみたのは、翔けりさる真紅の竜の、月光にきらめく鱗。くねる長い尻尾。 背には長い銀髪がたなびいている。 「・・・やれやれ」 こんな時間に夜空を見上げている人なんて、そんなにいないと思うけど。 でも見ていた人は、夢だったとでも思うんだろうか。 その鱗は、一度だけロイが見せた、太古の焔と同じ色。 錬金術ではなく、竜が生みだすこの世の外の焔。 深い深い熾き火によく似た、紅の色。ロイの、瞳の虹彩の色だ。 竜は一瞬ふりかえって、ヘザーを見たような気がした。 もっとも、そんな気がしただけかもしれない。 赤い流星は、一直線に行ってしまった。 絡みあう運命の相手、大切な人のもとに。 ヘザーはすこし淋しげに、そうして心底ほっとした様子で、安堵の息をついた。 ああ、それにしても、ロイの竜の姿を見るとは思わなかった。 震えるほど圧倒的で、綺麗で綺麗で、なんだか一生、瞼に焼きついてしまいそうだった。
高崎ツナ様からいただきました。ロイがエドに対して抱く感情は何なのでしょうね。というかロイが竜だったのか予想が外れた!!(落ち着け)
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